天理 和爾下神社 

Category: 奈良   Tags: 影媛  

「けんかをやめて、二人を止めて、私のために争わないで」という歌詞がありました(昭和の時代ですね)

韓流ドラマか、お昼の連ドラのようなシチュエーションが記録されているのが和爾下神社にある「影媛あわれ」。

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和爾下神社は天理市櫟本町にあり、大陸(朝鮮系)帰化民族だったとされる和邇氏の神社。

和邇氏は金属採鉱、 精練(鍛冶)、埴輪製作に携わった技術集団だったとされ、春日氏、佐保氏、柿本氏、物部氏のルーツであるともいわれています。

<境内には支流である柿本人麻呂を祀った柿本寺跡が残されています>

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柿本人麻呂も多くの謎に満ちた人物で、様々な人が考証を行っています。

中でも梅原猛の「水底の歌」は有名。

賛否両論ありますが仮説としては興味深いと思うので、時間がある方はぜひ。

新潮文庫、上下巻で出版されてます。

<医者で歌人でもあったこの地の森本宗範らが建てたとされる歌塚>

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<三間社流造・向拝付・檜皮葺 桃山期の建立の拝殿>

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祭神

素盞嗚尊 大己貴命(一名大国主神) 稲田姫命

<狛犬ならぬ狛牛(牛頭天皇社だったときの名残とされています)>

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さて物部麁鹿火(あらむかい)大連の娘・影媛に話を戻します。

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影媛は時の大臣であった平群真鳥(まとり)の息子、鮪(しび)の恋人でした。

影媛の出自は物部氏、本拠地は石上神宮のある天理市布留山。

鮪は生駒の平群氏、武内宿禰(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇に仕え、国政を補佐したとされる)の後裔とされます。

それにしても天理と生駒、直線距離にしても30キロ以上隔たっているでしょうか。

鮪は遠くから通っていたようですね。

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<広い境内、実は神社は古墳の上にある>

その影媛を皇太子時代の武烈天皇が見初めることに。

武烈天皇が影媛が何故欲しかったのでしょう?

一つは国政を掌握していた平群氏と、力のある豪族物部氏が結ぶのを阻止したかったのではないでしょうか。

国政をほしいままにしたと言われる真鳥ですが、皇太子からの提案はことわれなかったようです。

25代武烈天皇は、名前通り妊婦の腹を割いたり、人の生爪を剥して山芋を掘らせたりする、など異常な逸話もある激しい性格です。
無闇と怒らせたくはなかったのでしょう。影媛との婚約を承諾しました。

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<拝殿までかなり急な階段を上ってゆく>

ところが影媛と既に通じていた鮪は、納得できず、海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において皇太子と歌合戦をすることに。

歌合戦の模様です。

太子から鮪へ  「潮の瀬の 波折りを見れば 遊び来る 鮪が鰭手に 妻立てり見ゆ」

鮪から太子へ  「臣の子の 八重の韓垣 許せとや皇子」

太子から鮪へ  「大太刀を 垂佩立ちて 抜かずとも 末果たしても 遇わんとぞ思う」

鮪から太子へ  「大君の 八重の組垣 編結べども なをあま鮪み 組垣結ばぬ」

太子から鮪へ  「臣の子の 八重の柴垣 下響み 地震が寄り来ば 破れむ柴垣」

太子から影媛へ 「琴頭に 来居る影媛 玉ならば 我が欲る玉の 鰒真珠」

鮪(影媛)から太子へ 「大君の 御帯の倭文絵 結垂れ 誰やし人も 相思わなくに」




太子(皇太子)が鮪に「影媛に会いたいのに、鮪がちょろちょろ遊びに来てうっとうしい、邪魔だからどけ」と言った。

鮪は「恋人の周りに八重に垣を廻らせることのどこが悪いんですか、私は臣下ではあるけど、入るのは許せません」と答えた。

太子は「その気になれば大太刀で垣をぶっこわしてでも入るぞ、今は抜かないつもりだけど、そうなる前に会わせろ」と言ってます(権力を嵩にきた、いかにもな返事です)

鮪は「大君の作る八重垣は 編んで結べども な~にすかすかでしょうから、私は通り抜けられますよ」とこれまた人をくった返事です。

太子は「おまえの作る柴垣はしっかりしてるようだけど、地震がきたらすぐ壊れるぞ」返してます。

媛には「琴の音には神が来ると言われる、真珠の玉のようなお媛さんですね」と求愛の歌を送ってます。

媛からは「大君の倭文織の布が垂れ(タレ)ていますが、結んでさしあげようとは思いませんよ」返歌がありました。
(昔の人は紐を結んだり、ほどくのは妻や恋人の手でしてもらう習慣がありました)

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歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村に命じて鮪を乃楽山(ならやま、奈良市)に誅殺させ、11月には父の真鳥大臣も討ちました。

大伴金村はその年に大連に出世しています。

影媛は布留から乃楽山まで出かけ葬いをしました(一説には討たれた姿を見たとも言われてます、ちょっと出来過ぎ?)

その影媛が葬いで詠んだとする歌

「石の上 布留を過ぎて 薦(こも)枕 高橋過ぎ 物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)
過ぎ 春日(はるひ)の 春日を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さえ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あわれ」

自分であわれ、というでしょうか?誰か心情を思い遣って歌ったのでしょうか?

ただ恋人が亡くなったわけですから、史実通りなら、泣きながら山の辺の道を歩いたことは確かでしょう。

この碑は「布留を過ぎて・・・高橋過ぎ」に当たる場所に建てられています。
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テーマ : 歴史大好き!    ジャンル : 学問・文化・芸術
 2011_12_29


Comments

おめでとうございます! 

新年明けましておめでとうございます!
今年も2011年に引き続きてん&かいファミリィーをよろしくお願いいたしますね!v-410
てん&かいママ  URL   2012-01-01 14:44  

 

てん&かいママ>

早々と新年の御祝詞をいただきありがとうございます。
こちらこそ本年も旧年同様よろしくお願いします。
せれまま  URL   2012-01-01 23:47  

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